管弦楽曲として、またポピュラー音楽としてもお馴染みの「だったん人の踊り(と合唱)」は、元々は歌劇『イーゴリ公』の一場面です。
劇中、第2幕のポーロヴェツの陣営で、敵将コンチャークが負傷して捕らわれている主人公イーゴリ公の気晴らしにと宴席を設け、
その余興として、華やかに繰り広げられる歌と踊りがそれです。
この場面では、ポーロヴェツの若者と娘たち、戦利品として略奪されて来た娘たちが歌い踊り、前半と後半で繰り返されるエキゾチックな歌には、
奴隷として連れて来られた人々の望郷の思いが込められています。
風の翼に乗って飛んでゆけ「だったん人の踊りと合唱(歌詞)」
なお、最近では慣用的なタイトル「だったん人の踊りと合唱」のほか、本来のタイトル「ポーロヴェツ人の踊りと合唱」も使われるようになりました。
管弦楽曲としては、録音、演奏ともに、合唱が入っているもの、入っていないもの、バス(コンチャーク)の独唱が入っているもの、入っていないもの、
「だったん人の踊りと合唱」に先行する形で、「だったん人の娘たちの踊り」がセットになっているもの、いないもの、等々、
色々なバージョンがあります。
「だったん人の娘たちの踊り」と「だったん人の踊りと合唱」とのカップリングの慣例化については、
ディアギレフのロシア・バレエ団が関連していると考えられます。
この二曲は歌劇の中では別々の場面で演奏されるものの、共にバレエシーンなので、
おそらく、ロシア・バレエ団が演目に加える際に別々の二つのバレエシーンを一組の作品として上演し、
それがカップリングの始まりになったのではないでしょうか。
(ロシア・バレエ団で指揮をしていたアンセルメは後年のスイス・ロマンド管弦楽団での録音で、
この2曲をあたかも1曲であるかのように、続けて演奏しています。)
日本では「だったん人の踊り(と合唱)」として定着した曲の本来の名称は「ポーロヴェツ人の踊り(と合唱)」です。
「ポーロヴェツ人の踊り」を「だったん人の踊り」と呼んでいるのは恐らく日本だけで、その他の地域では原題通り、「ポーロヴェツ人の踊り」と呼ばれています。
このポーロヴェツ人という民族はテュルク系の遊牧民族であり、物語の舞台は、いわゆる南ロシア、現在のウクライナ共和国、時代は12世紀末のことです。
(ポーロヴェツ人についての詳細は、『イーゴリ遠征物語』をご覧下さい。)
それでは、なぜ、「ポーロヴェツ人の踊り」が「だったん人の踊り」に変えられたのでしょうか?
『イーゴリ公』の物語の約20年後にチンギス・ハンが遠いモンゴル高原を統一します。
そのチンギスの息子達に率いられたモンゴル軍が1223年にはカフカスを越えてルーシに襲来し、ルーシとポーロヴェツの連合軍は破れます。
このモンゴル軍はルーシの人々には未知の民族で、彼らのことをルーシの年代記で「タタール」と呼んでいます。
このタタールという言葉は現代、広義ではロシアでの東洋系の異教徒、異民族の総称であり、狭義では主にロシア連邦内のタタールスタン共和国などに居住するテュルク系の諸民族を指します。
広義においてはテュルク系もモンゴル系もみなタタールであり、後の時代から見れば、テュルク系のポーロヴェツもタタールになってしまいます。
(ちなみに、『トゥーランドット』に登場するカラフがタタールの王子だったり、シェイクスピアの翻訳でも韃靼人が登場しますが、すべてポーロヴェツ人とは無関係です。)
入り組んだ話になりましたが、おそらく、日本に「ポーロヴェツ人の踊り」が初めて紹介された際に、馴染みの少ないポーロヴェツをタタールに、
さらにタタールを韃靼(だったん)という漢字に置き換え、異国情緒を駆り立てたのだろうと推測することが可能です。
(2023/12/31)
「だったん人の踊り」を西欧にもたらしたのは、
19世紀末から20世紀初頭にかけて、舞台を前衛的な総合芸術としてプロデュースしたディアギレフのロシア・バレエ団(バレエ・リュス)でした。
1909年のパリ公演で上演された「だったん人の踊り」は、フォーキンの振付で、レーリヒ(リョーリフ)が美術を、バクストが衣装を担当しています。
ロシア・バレエ団が上演した「だったん人の踊り」は、男性ダンサーの力強い群舞と東洋的な雰囲気で観客を圧倒したといいます。
当時のグランドバレエではバレエの華は専ら女性ダンサーでしたが、ロシア・バレエ団は多くの演目で男性ダンサーに活躍の場を与え、その技術と地位の向上に貢献しました。
バレエの独立した演目としても上演される機会がある
「だったん人の娘たちの踊り」と「だったん人の踊り」にはいくつかの振付のバージョンがあります。
フォーキン版、ゴレイゾフスキイ版が定番化している一方で、最近の公演では各劇場ごとに独自の振付を試みることも多いようです。
2012年のパウントニー演出、フェドセーエフ指揮で上演されたハンブルク歌劇場の公演ではレナート・ツァネラが振付を担当しました。
2014年のチェルニャーコフ演出、ノセダ指揮で上演されたMETの公演のバレエの振付はイツィク・ガリリでした。(2014/07/20)
1890年のマリインスキイ劇場で初演された時の振付です。
イヴァノフはチャイコフスキイのバレエ『白鳥の湖』や『くるみ割り人形』などの振付で特に有名ですが、この振付によるバレエは残念ながら未見です。
1909年のロシア・バレエ団パリ公演で上演された時の振付。
マリインスキイ劇場やコヴェント・ガーデン・ロイヤル劇場の『イーゴリ公』で使われています。
男性ダンサーが弓を持った片手を突き上げてスキップをする動作が印象的です。
ボリショイ劇場の振付。
2007年のムソルグスキイ記念ミハイロフスキイ歌劇場の来日公演もこの振付でした。
腰をかがめた動作が多く、女性には膝立ちの動作があるのが特徴的。
「だったん人の踊り」の最後で男性ダンサーがリフトした女性ダンサーをそのままコンチャーク役の歌手が横抱きにしたらこのヴァージョンです。
1931年のドイツの有名な映画です。
この中で、フォーキンの振付による「だったん人の踊り」を観劇しているシーンが出てきます。
弓矢を携えた男性と、アラビア風の衣装をまとった女性の群舞で、映画冒頭のクレジットによると、踊りはボリス・ロマノフ。
おそらく1922年に旗揚げしたロシア・ロマンティック劇場の協力によるものでしょう。
ちなみに実際にウィーン会議が開かれたのは1814〜15年。勿論、「だったん人の踊り」が作曲される前のお話です。
ボリショイ劇場創立175周年を記念して作られた旧ソ連の映画です。
地方の働き者の善男善女がボリショイ劇場で夢のようなひと時を過ごすというドラマ仕立てですが、
劇中でボリショイ劇場の演目の抜粋が登場します。
『イーゴリ公』からも「だったん人の踊り」他、40分近い抜粋が収録されています。
配役はイーゴリ公/ピロゴフ、ヤロスラーヴナ/スモレンスカヤ、ヴラヂーミル/コズロフスキイ、コンチャーク/ミハイロフ。
『イーゴリ公』以外に収録されているオペラは『エフゲニー・オネーギン』と『イヴァン・スサーニン』、
バレエは『白鳥の湖』、『ロメオとジュリエット』そして『ジゼル』です。(2014/07/20)
1983年の旧ソ連とイギリスの合作映画です。
マリインスキイ出身の伝説的プリマ、アンナ・パヴロワの生涯を描いた伝記的作品で、
ディアギレフ率いるバレエ・リュスがフォーキンが振付けた「だったん人の踊り」をパリのシャトレ座で上演するシーンがあります。
この映画にはボリショイ劇場とマリインスキイ劇場が協力、参加しており、
「だったん人の踊り」は背景も衣装もマリインスキイ劇場によるものでした。(2008/07/13)
1954年のトニー賞を受賞したブロードウェイ・ミュージカル。
この中で、ボロディンの交響曲、弦楽四重奏曲、管弦楽曲がアレンジして用いられ、ボロディンもこの年のトニーのオリジナル音楽賞を受賞(!)
翌55年には映画化され、そのサントラ盤も出ています。
このミュージカルを有名にしたのは、「ストレンジャー・イン・パラダイス」で、「だったん人の踊り」の「風の翼に乗って飛んでゆけ」のアレンジ曲です。
あまりにもこの曲がヒットして、さらにこれをアレンジした「パラダイス・ア・ゴー・ゴー」もヒットしました。
ちなみにミュージカルのタイトル「kismet」は「宿命」を意味するトルコ語だそうで、上演当時が冷戦時代だったことも照らし合わせると、 ボロディンの音楽を、ロシア色を払拭し無国籍な東洋趣味に置き換え、歌詞を英語で作り直して、楽しんだようにも思えます。
TVCMやドラマ、ゲーム、アニメーション… 様々なメディアで取り上げられた「だったん人の踊り」を集めてみました。
情報提供をしてくださった皆さんにお礼申し上げます。(2016/10/17)
番組テーマ曲 | NHKラジオ「ロシア語講座」入門編 |
CM | JR東海 「うましうるわし奈良」(2006〜放送中) 関西電力 「コーポレートブランド 挑戦の歴史篇」(2016放送) 丸永製菓 「あいすまんじゅう」(2016〜放送) SUBARU×世界遺産「ハルシュタット」(2015放送) 東芝「IH本羽釜炊飯器」(2015放送) ダンロップ「エナセーブ」(2011放送) JT「ルーツ」(2008放送) 東レ 「爽竹」(2005放送) 日清 「カップヌードル 欧風チーズカレー」(2003放送) JT「ピースライト」(1991放送) オリエント・ファイナンス (1988放送) アデランス (1987放送) クボタ キリン 「HYPA100」 |
映画 | 『ブラブラバンバン』(2008 日本) 『アンナ・パヴロワ』(1983 ソヴィエト、イギリス合作) 『ボリショイ黄金期の芸術家たち』(1951 ソヴィエト) 『会議は踊る』(1931 ドイツ) |
音楽番組 | NHK・Eテレ『ららら♪クラシック』「人々を結ぶメロディ ボロディンのダッタン人の踊り」(2015/01/17放送) NHK・BS2『名曲探偵アマデウス』#42「海底からの遺言状」(2009/09/06放送) |
ドラマ | フジTV『のだめカンタービレ in ヨーロッパ 第2夜』(2008/01/05放送) |
ゲーム | PS3・XBox 360『キャサリン』(2011/アトラス) PS2『金色のコルダ・2』(2007/Koei) アーケード『Dance Dance Revolution Super NOVA』(2006/コナミ) PS2『OZ−オズ−』(2005/コナミ) PS2『サルゲッチュ3』(2005/ソニーコンピュータエンタテインメント) スーパーファミコン『実況おしゃべりパロディウス』(1995/コナミ) |
アニメーション | 『池袋ウエストゲートパーク』(2020) 『忍たま乱太郎の宇宙大作戦』(2017) 『響け!ユーフォニアム2』(2016) 『血界戦線』(2015) 『APPLESEED XIII』(2011) 『ラーゼフォン』(2002) 『プリンセス・チュチュ』(2002) 『彼氏彼女の事情』(1998) |
2006年1月から、JR東海の「うましうるわし奈良」のTVCMシリーズ放送中。
このシリーズでBGMとして使われている「だったん人の踊り」のアレンジ曲は、
『AGAIN〜JR東海「うましうるわし奈良」キャンペーンソング』のタイトルでCDが発売されています。(2006/04/02)
「うましうるわし奈良」の音楽を担当した株式会社青空さんの
CM作品集で、2005年の東レの「爽竹」で使用された「だったん人の踊り」も聴くことができます。
ロシア語は日本語では使わない音がたくさんある言葉です。
正確にロシア語を日本語のカナで表現することはできませんが、なるべくロシア語に近い表記を試みてみました。
また、ボロディン、ボロヂーン、ボロジン(ロシア語により近い表記ではバラヂーン)、
ロシア、ロシヤ(同様にラシーヤ)など、慣用されている表記や揺れのある表記も、
検索のしやすさを考えて適宜併用しています。統一感に欠ける点はご了承ください。
このサイトでは、ボロディンの作詞による歌劇『イーゴリ公』の歌詞(ロシア語)の一部、
及び、『イーゴリ公』のソフトのジャケット類と関連する書籍の表紙の画像、
そしてビリービンによる『イーゴリ公』関連のイラストレーションの画像を掲載しています。
以上のロシア語歌詞、画像の掲載に何らかの著作権上の問題がありましたら、ただちに掲載を取りやめます。
また、掲載している『イーゴリ公』の日本語訳は管理人Vindobonaによるものです。(2006/03/15)